
表現の自由の一貫性を求める――左派が「高校生のスピーチを守りたい」なら、身内の妨害も非難すべきだ
6月19日の国会前デモで、主催者側が高校生のスピーチを遮る右翼系男性の反対コールを「妨害」と批判し、警察に排除を求めて拒否される一幕があった。この事案は、日本の言論空間における「表現の自由の二重基準(ダブルスタンダード)」を改めて浮き彫りにしている。
表現の自由と「妨害」の明確な法的水準
憲法21条が保障する表現の自由は、公共空間での平和的なヤジや反対コールを広く保護する。2019年の札幌ヤジ排除訴訟でも、肉声による批判を警察が安易に排除することは違法であるとの判例が確定した。一方で、大音量の拡声器や執拗な追尾によって他者の演説を物理的に不可能な状態にする行為は、公職選挙法の選挙妨害罪や威力業務妨害罪に抵触する。明確な線引きは「演説が物理的に成立しているか否か」である。
自陣営には甘く他者には不寛容という自己矛盾
しかし現状は、政治的立場によって都合よく基準が使い分けられている。左派・リベラル系グループは、保守系の街頭演説に対して大音量の拡声器やドラムを打ち鳴らし、プラカードで遮る「カウンター行動」を日常的に展開し、それを表現の自由として正当化してきた。それにもかかわらず、自陣営の集会で反対派から肉声のコールを受けると、即座に「卑劣な妨害」と位置づけ、警察の権力介入を要請する。これは明らかな自己矛盾である。
民主主義の基盤となる「一貫したルール」の確立へ
右派にも左派にも表現の自由は等しく存在する。警察が「右翼にも表現の自由がある」として中立の立場から排除を拒否したのは、法的に極めて妥当な判断である。
左派が「高校生のスピーチを守りたい」と本気で主張するなら、自陣営の過激カウンターを自制・批判する姿勢を示すべきだ。保守側も同様に、相手の平和的反対意見を「全部妨害」と一括りにしてはならない。民主主義は「不快な反対意見も聞く覚悟」が前提である。どちらの側も「自分に都合の良い時だけ原則を振りかざす」二重基準を続けていては、社会的分断は深まるばかり。国会前デモでも街頭演説でも、同じルールを双方に適用する成熟した言論空間こそが求められている。
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