「昭和天皇独白録」高須克弥氏の行いで日本に帰還。ネットでは賞賛の声!

「昭和天皇独白録」と呼ばれる回想録の原本が長い時を経て高須克弥氏の手によって日本に帰ってきます。
高須氏は皇室に提供する意向を見せております。大変すばらしいことではないでしょうか。
原本は日本の歴史を理解する上での重要な資料の一つであり、この高須氏の行いをネットで賞賛されている。

「昭和天皇独白録」落札者は高須クリニック院長高須克弥氏 皇室に提供の意向

昭和天皇が太平洋戦争などに関する出来事を戦後に回想した「昭和天皇独白録」について、側近が記録した原本とされる文書が6日、ニューヨークで競売に掛けられ、手数料と合わせ27万5千ドル(約3090万円)で落札された。主催した競売会社ボナムスによると、落札者は愛知県西尾市出身で美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長。高須氏はツイッター上で文書を皇室に提供する意向を示している。ボナムスは「20世紀の日本の歴史を理解する上で鍵となる資料だ」としている。産経ニュース

昭和天皇独白録とは?

昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。1990年に『文藝春秋』において公表された。

「昭和天皇独白録」と呼ばれる回想録は、戦後に米国の要請を受けてまとめられたと考えられている。手書きの記録は、「現人神」とあがめられていた天皇の個人的な戦争責任を回避するため、慎重に書かれたとみられる。

独白録は昭和天皇崩御の翌年、1990年に初めて出版された。

英競売会社ボナムズによって今回、ニューヨークでの競売にかけられた独白録の原本の予想価格は10万~15万ドルだった。

独白録は、戦後間もない1946年に数人の側近が天皇の言葉を書き取ったもので、「連合国軍総司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官が、記録するよう促したと思われる」とボナムズは説明している。

競売にかけられた原本は、元外交官で天皇の側近だった寺崎英成氏が手書きで作成。寺崎氏は占領軍とのやり取りで天皇の通訳を務めた。

ボナムズは、2冊にまとめられた原本が天皇が語った内容を完全に記録した唯一のもので、日本の歴史を理解する上での「重要な資料の一つ」と解説した。

昭和天皇は独白録の中で、戦前、戦中の自らの立場について内閣の決定に抗えない状況だったと振り返った。また、開戦に反対すれば破滅的な内乱が起きるだろうと恐れたと語った。

戦前、戦中の意思決定で昭和天皇が果たした役割について、歴史家の意見は分かれている。

戦後開かれた東京裁判で日本の元指導者たちが多数、戦犯として裁かれたものの、昭和天皇は訴追されなかった。その後、日本が復興し経済大国になり、冷戦下で西側の強固な同盟国になる間、天皇であり続けた。http://www.bbc.com/japanese/42261593

作成の経緯

『独白録』は、外務省出身で当時宮内庁御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。寺崎によるしめくくりには、この記録の作成経緯について次のように記されている。

本篇は昭和二十一年三月十八日、二十日、二十二日、四月八日(二回)、合計五回、前後八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長及寺崎御用掛の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった

前三回は御風気の為御文庫御引篭中特に「ベッド」を御政務室に御持込みなされ御仮床のまま御話し下され、最后の二回は葉山御用邸に御休養中特に五人が葉山に参内して承ったものである

記録の大体は稲田が作成し、不明瞭な点に付ては木下が折ある毎に伺ひ添削を加へたものである

— 昭和天皇独白録

木下道雄の『側近日誌』によると、1945年12月4日に梨本宮守正王が戦犯容疑で逮捕されたのをきっかけとして、昭和天皇との相談の上「御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可」として松平康昌と共に木下が作成することになった。作業は一旦中止されたが、翌年2月25日になり戦犯裁判との関連で手記を用意する必要がないかとの天皇の下問があり調査が再開された。

10時30分~12時、陛下、御風邪未だ御全快に至らざるも、かねての吾々の研究事項進捗すべき御熱意あり。よって御政務室に御寝台を入れ、御仮床のまま、大臣、予、松平総裁、稲国内記部長、寺崎御用掛の五人侍して、田中内閣よりの政変其の他、今般の戦犯裁判に関係ある問題につき御記憶をたどりて事柄を承る— 木下道雄『側近日誌』昭和21年3月18日

稲田周一の手になる正文があったとみられるがこれは発見されていない。
『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。
寺崎は病のため1948年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカに戻った。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管した。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。

高須院長のtweet

高須克弥 (@katsuyatakasu) | Twitter

ネットでの反響

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