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朝日新聞を陰で操る村山家による「村山事件」とは?

朝日新聞を創刊時から陰で操る、知られざる一族がいます。村山家です。

村山家と朝日新聞

朝日新聞には社主として村山家が君臨しています。社主とは企業オーナーと同義であり、朝日新聞の現在の体質は村山家自身の体質といえるのではないでしょうか。現在の社主は村山美知子。村山美知子の祖父、村山龍平が朝日新聞創刊から関わり、上野理一と共同経営にあたっていたのが起源です。

朝日新聞の平成18年3月末の資本所有(大株主と所有株)

株式
村山美知子(社主)(村山龍平氏孫娘) 36.46%
上野尚一(社主) 12.82%
朝日新聞社従業員持株会 10.56%
村山富美子(村山龍平氏孫娘) 8.57%
上野克二 3.34%
上野信三 3.34%
朝日新聞社役員持株会 2.18%
小西勝彦 1.11%
塩谷律子 1.03%
夏目美紀夫 0.63%
上記株主の合計 80.05%

現在でも村山家は株式の33.16%を所持している筆頭株主です<朝日新聞社#株主>。勿論、村山家単独では23.16%なのですが、財団法人香雪美術館の10%も含まれているのです。というのは、この財団法人完全なる同族法人でであり、理事長と副理事長は村山一族、展示品は村山家代々の美術品なのです。しかも、上野一族の保有する13.46%もの株式を追加すれば過半数に迫る46.62%が特定の一族に支配されている異様な状況です。朝日新聞は、外見上社員約4500人を抱える大企業ですが、実体は、肥大したオーナー企業に他なりません。

これは読売新聞、産経新聞、日経新聞、毎日新聞と比べても異常な数字です。他の四大新聞社は法人のみか、創業者一族が消費税以下の数字しか保有していません。

しかし、この村山家はとんでもない問題を起こした一族です。今でこそ忘れられていますが、昔に起こった、前代未聞の村山事件と呼ばれている出来事を紹介します。

村山事件

事件の経緯

1963年3月、朝日新聞社と東京国立博物館が共催した「エジプト美術五千年展」の場内で、朝日新聞社長夫人(村山藤子)が昭和天皇夫妻に近づこうとした際、宮内庁職員に制止されたことで転倒して骨折したとし、同社編集部に宮内庁糾弾キャンペーンを指示したものの、編集局は調査の結果、夫人の言い分は誇張だと判断した。

このため、1963年12月24日の朝日新聞社定時株主総会で、同社の株式40.5パーセントを保有する大株主の村山社主家は、販売部門の最高責任者である永井大三常務取締役・東京本社業務局長を解任した。これに対して同社の業務(販売、広告、経理)関係役員らが全員辞任し、全国の新聞販売店が朝日への新聞代金納入をストップした。

紛争は編集部門にも拡大して、村山長挙社長が翌1964年1月10日に木村照彦取締役・東京本社編集局長を北海道支社長へ左遷する辞令を発すると、木村編集局長は北海道への赴任を拒否した。村山社長は木村編集局長の後任人事の辞令も発令したため、東京本社では編集局長が2人いる異常事態となった。

そのため同1月20日の役員会で村山社長は辞任し、西部本社担当に左遷されていた広岡知男ら4人の取締役が代表取締役となった。後任社長には同年11月17日、全日空相談役となっていた元常務取締役で朝日新聞社顧問の美土路昌一が就任し、同日付で専務取締役に昇格した広岡が、森恭三論説主幹らと組んで実権を握った。広岡は1967年7月21日に社長となり、朝日新聞社の経営から村山家を排除する路線を推進した。

また、事件まで朝日新聞最強の実力者で“私設常務”と言われた政治部次長三浦甲子二が、社内で後ろ盾となっていた村山長挙、永井大三、木村照彦を一気に失って失脚し、1965年3月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)取締役に転出する原因となった〈Wikipediaより

この事件はひどいです。要するに1963年3月、朝日新聞社らが主催した「エジプト美術五千年展」を訪れた昭和天皇に当時の村山社主夫人が近づこうとしたところ、宮内庁職員に制止されたことで転倒。夫人は骨折したと主張し、編集部に宮内庁の糾弾キャンペーンを指示したのです。

昭和天皇はまさに偉大な名君だったことは言うまでもありません。
例えば、終戦直後、昭和天皇が占領軍司令官のマッカーサー元帥を訪問した際の会話です。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』

一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。

『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4383

マッカーサー元帥は昭和天皇が命乞いに来たのかと思っていたそうですが、自らはどうなっても良いから国民を救いたいという思いを披歴されたことに、大変な感銘を受け、その後の占領政策を日本に配慮したものにしていきました。

その偉大な昭和天皇夫妻にあろうことか、主催イベントの一社の社長の夫人でしかないのに勝手に近づこうとしたのです。
なんたる勘違い。しかも当時は左翼の暴力主義が盛んだった時代です。不審者として思われるのは当然です。
宮内省職員が身を呈して村山夫人の接近を防ごうとするのは当たり前です。表彰されるべき行動です。

しかも、それで転倒しただけなのを「骨折」したと主張するのは、もはや「当たり屋」と変わりありません。
そして、逆恨みして、自らが保有する新聞に「皇室糾弾キャンペーン」を命じるのは暴君や独裁者の行いです。

村山家はこのように皇室糾弾キャンペーンというとんでもないことを進めた過去があるのです。当時の朝日新聞社でもこれを発端に村山家を経営から外し自浄作用を働かせたと対外アピールせざるを得ませんでした。しかし、経営から外したとはいえ、所有株を45%保持する村山家が実権を握り続けているのが事実です。そして、いつのまにか社主としてまた君臨しているのです。

村山家をいったんは経営から外したものの、その後実権を握った広岡知男が親中派で、広岡知男氏の次に実権を握った秦正流が親ソ派といずれも共産支持者でした。村山家は事件後も朝日新聞社に対して強い影響力を残していったのではないかとも推測ができます。

「天皇と朝日新聞」因縁確執

「この事件は、その後、朝日の内紛に発展します。編集部が夫人の言い分をおかしいと判断。最終的に社長は更迭され、朝日新聞の経営権を失うことになります。朝日はどちらかといえば親皇室の論調でしたが、この糾弾キャンペーンをきっかけに、現在の反皇室的な論調になったのではないでしょうか」(渡邉氏)

06年にも、朝日新聞は皇室に“もの申して”いる。

「ヒゲの殿下」として親しまれた寛仁親王が毎日新聞や文藝春秋に、女系天皇についての私見を述べた。そして朝日新聞は、「黙れ」と言わんばかりの社説を掲載したのだ。「寛仁さま 発言はもう控えては」

https://www.asagei.com/excerpt/27086

朝日新聞の皇室を軽んじる態度はひどいものです。反皇室キャンペーンを掲げた村山家にそのルーツがあり、今でも社主に村山家の人物を据えている現状をみれば、現在も報道姿勢を改める気がないことがわかます。今後も、この村山家に注目し、引き続き追求していきます。

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