
「教育の自由」を免罪符にするな――志位和夫氏の文科省批判が忘れている「生徒の命」
京都府の同志社国際高校が沖縄県・辺野古沖で起こしたカヌー転覆死亡事故は、17歳の未来ある女子生徒の命が失われるという痛ましい悲劇であった。現場の波浪注意報を見落とし、事前の下見も行わず、教員が同乗しないまま違法な無登録の抗議船に生徒を乗せていたという学校側の安全管理体制は、一線を越えた「怠慢」の謗りを免れない。さらに、辺野古移設への抗議活動を行う特定の市民団体に生徒を近づけたカリキュラムは、教育基本法が定める政治的中立性を著しく逸脱したものだった。
文部科学省が現地調査を経て同校に是正を求めたのは、生徒の生命を守り、教育の適正化を図るための行政として当然の職務執行である。
しかし、日本共産党の志位和夫議長はこの対応を「不当な教育支配・行政介入」と猛批判した。志位氏は憲法や教育基本法、旭川学力テスト最高裁判決を盾に「教育の自由」を主張するが、その論理はあまりに独善的で、本質を履き違えていると言わざるを得ない。
最高裁判決が示した国の教育権の制限は、学校が適法かつ安全に中立な教育を行っていることを前提としている。違法性や著しい危険、そして偏向教育が認められる事態において、行政がこれを是正することは「必要かつ合理的な範囲」の正当な権限行使である。「教育の自由」とは、生徒を危険に晒す自由でも、学校を無法地帯にする免罪符でもないはずだ。
何より看過できないのは、志位氏の主張が、人命に関わる重大な事故を「国家権力対政党」という自らのイデオロギー闘争の道具にすり替えている点である。安全対策の不備を検証し、真実の究明と再発防止を求める遺族の痛切な声に対し、学校側や身内の政治運動を擁護するかのような姿勢はあまりに冷酷だ。政治的思惑のために人命軽視の安全管理を正当化する論理は、断じて社会に受け入れられるものではない。


