
党派性を超えた「命と教育の基準」――斎藤幸平氏の苦言が突く左派のダブルスタンダード
3月に発生した同志社国際高校の辺野古沖転覆事故を巡り、文部科学省は教育基本法違反を認定して是正を指導した。この判断に対し、一部の左派リベラル陣営からは「教育への不当な介入だ」「平和学習の萎縮を招く」といった反発の声が上がっている。
しかし、こうした身内擁護の姿勢に冷水を浴びせたのが、気鋭の経済思想家であり、東京大学大学院准教授でもある斎藤幸平氏の発言だ。自身も辺野古新基地建設に反対する立場を明言している斎藤氏はテレビ番組内で、歴史的事実を学ぶ従来の平和教育と、未成年の生徒を実質的なデモ活動に近い「抗議船」に乗せる行為の政治的濃度の違いを明確に区別。「乗せちゃダメということはむしろ基地反対派こそ言うべき」と喝破した。
東大准教授というアカデミアの立場、そして当事者と同じ思想的立ち位置からのこの直言は、現在の左派が陥っている「ダブルスタンダード」を痛烈に炙り出している。
普段、時の政権や保守派に対して「法の支配」や「説明責任」、「人権と安全の確保」を厳格に求める彼らが、なぜ自らの陣営が関わる不祥事に対してはこれほどまでに甘くなるのか。波浪注意報の発令中に無登録の船へ高校生を乗せ、結果として尊い人命を失わせたという動かしがたい「安全管理の破綻」から目を背け、政治的大義名分(平和教育)を盾に自己正当化を図る姿は、彼らが最も嫌悪するはずの「権力の隠蔽体質」そのものである。
特定のイデオロギーを守るために普遍的なルールや安全の軽視を容認するようでは、言論としての信頼を失うのは当然だ。「身内の過失であっても、間違っているものは間違っている」と論理的に批判した斎藤氏の姿勢こそが、対立を乗り越えた健全な言論空間の土台となる。左派陣営は、不当な介入だと騒ぎ立てる前に、失われた命の重さと自らの二重基準を猛省すべきだ。


