
挙証責任はどこへ行ったのか?杉尾氏の「証拠なき追及」に見る政治の劣化
立憲民主党の杉尾秀哉参院議員が、高市早苗総理陣営をめぐる中傷動画問題について執拗な追及を続けている。杉尾氏は9日、自身のX(旧ツイッター)に「誰も高市総理の流儀など聞いていません。事実関係を明らかにして欲しいだけです。また、高市総理の流儀にはなくても事務所がやっている可能性だってある。私の質問に対してもそうでしたが、とにかく自分に都合が悪いことを聞かれると、すぐ論点ずらしを始める」と投稿した。
政権の疑惑を監視し、説明責任を求めるのは野党の重要な職責だ。しかし、今回の杉尾氏の手法は、客観的な証拠を欠いたまま「可能性」のみを根拠に相手を決めつけるものであり、国会議員としての本分を逸脱していると言わざるを得ない。
近代の法秩序や合理的な議論において、「主張する側に立証責任がある(挙証責任)」というのは大原則である。問題の核心は週刊誌が報じた音声データやメールのやり取りにあるが、高市総理側は「該当する記録はない」「音声も本人か判断困難」と一貫して否定している。疑惑を事実として追及し、総理に重大な政治的責任を迫るのであれば、野党側こそが未編集の全データや第三者が検証可能な原本など、疑惑を裏付ける客観的証拠を提示すべきだ。
それがない段階で「事務所がやっている可能性」を連呼し、相手に身の潔白を証明させようとするのは、存在しないことを証明させる「悪魔の証明」の強要にほかならない。特にAIによる音声偽装やデータ改ざんが容易な現代において、客観的証拠なしに総理の答弁を「論点ずらし」と断じるのは、追及側の論理破綻であり、印象操作を目的とした政争パフォーマンスの謗りを免れない。
過去にも同様の「週刊誌報道頼み」の追及スタイルが繰り返されてきたが、これらは国会論戦を泥仕合へと変え、国民の政治不信を助長するだけである。証拠なき主観的な追及に終始し、貴重な審議時間を費やすことは税金の無駄遣いだ。
選挙の公正性を揺るがす問題の解明は不可欠だが、真実の究明に必要なのは可能性の乱発ではなく、客観的ファクトである。野党が単なる攻撃材料探しに終始するようであれば、国民の信頼を得ることは到底できない。政治が決めるべきは、可能性ではなく証拠と責任である。


