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安倍元総理銃撃事件の映画化で問われる「表現の自由」の境界 “物語”が歴史になってしまう危うさ




2022年7月8日に起きた安倍晋三元総理銃撃事件が映画化されるという。東スポWEBによれば、今秋にもクランクインする予定で、山上徹也被告役には菅田将暉氏の名前も挙がっているという。

現時点で正式発表された情報ではないため、作品の内容を断定することはできない。しかし、もし実際に映画化されるのであれば、最も問われるのは「誰が山上被告を演じるか」ではなく、「この事件を、どの視点から描くのか」ではないだろうか。

安倍元首相と旧統一教会の関係については、近かったという見方がある一方、距離を取っていたという見方もある。また、旧統一教会を含む霊感商法や悪質な勧誘被害をめぐっては、事件以前から社会問題として存在し、被害防止や救済のための法的措置も講じられてきた。こうした複雑な背景は、切り取り方次第でいくらでも一つの「物語」に仕立てられる。

だからこそ危惧するのは、まだ検証途中の現代史が、映画によって一つの物語として固定されてしまうことだ。

織田信長のような何百年も前の人物なら、史料をもとに様々な人物像が物語化されてきた。しかし安倍元首相銃撃事件は、わずか4年前の出来事であり、裁判も続いている。当事者や関係者も存命で、膨大な一次資料も残っている。

映画は強い影響力を持つ。そこで描かれた「安倍氏はこういう人物だった」「山上被告はこういう人物だった」「事件はこういう理由で起きた」という物語が、いつしか事実そのものとして後世に記憶される可能性は否定できない。

特に絶対に越えてはならない一線がある。

どのような背景や境遇があったとしても、殺人は正当化されない。

事件の背景を描くことと、犯行を肯定することは全く違う。さらに、「安倍元総理は殺されても仕方なかった」という認識や、山上被告を英雄・革命家のように描くことは、政治的暴力を肯定する危険なメッセージにもなり得る。

映画を作る自由はある。しかし、表現の自由は「批判されない自由」ではない。

「なぜ殺したのか」を描くことはできても、「だから殺してよかった」という物語にしてはいけない。

まして、それが模倣を誘発するような誤ったメッセージとして社会に残ることだけは、絶対に避けなければならない。

安倍元首相銃撃事件を映画化するのであれば、問われるのは表現の自由の有無ではない。

事実と物語を混同させず、被害者を悪役にせず、政治的暴力を決して正当化しない。その最低限の一線を守れるのか…そこが問われている。




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