あれから35年 御巣鷹山の慰霊登山 新型コロナウイルスの影響で参加を見合わせる人やマスク姿の遺族も
乗客・乗員520人が亡くなった日本航空のジャンボ機墜落事故から12日で35年を迎えた。遺族らは朝から、現場となった御巣鷹(おすたか)の尾根(群馬県上野村、標高1565メートル)に向かう慰霊登山を始めた。新型コロナウイルスの影響で参加を見合わせる人もいる中、午前8時ごろからマスク姿の遺族らが標高約1400メートルの登山口を出発していった。
堺市の山岡清子さん(74)と長男直樹さん(53)は、親戚宅から帰宅する途中で亡くなった長女の知美さん(当時16)と次女薫さん(同14)の墓標の隣にサツキを植えた。
今夏は直前までためらったが、宿泊先が受け入れてくれると聞いて迷いが消えた。「妹たちの一番近くにいられる気がするし、他の遺族からも力をもらえる。この日だけは苦しみや悲しみを忘れさせてくれる」と直樹さん。
サツキは初夏に花を咲かせてくれる。次の夏に成長した姿を見るのも楽しみだ。2人の墓標に語りかけた。「安らかに眠ってね」
兄の栗原崇志さん(当時33)の家族3人を亡くした栃木県大田原市の橋本毅さん(66)は愛犬と登った。墓標に兄が好きだったビールを供えてつぶやいた。「命日に登れてよかった。それにしても早すぎた。悲しい」
東京都の池田香央理さん(28)は、夫莞爾(かんじ)さん(28)と義父の典正さん(60)と、初めて御巣鷹の尾根を訪れた。事故では、典正さんの父隆美さんが53歳で亡くなった。今年の7月に結婚式を挙げるはずだったが、コロナの影響で来年7月に延期。それでも「隆美さんに結婚の報告をしたい」と登ることにした。
この日は、典正さんが登りながら事故の細かな状況を説明してくれた。悲惨な事故の爪痕の大きさに衝撃を受けた。「しっかり自分たちの子の世代にもつないでいけるように、今日のことを心に刻みたい」と話した。
東日本大震災で宮城県石巻市立大川小学校に通っていた11歳の娘を亡くした紫桃(しとう)隆洋さん(56)は登るのをためらっていたが、墜落事故の遺族が声をかけてくれて今年も慰霊登山をした。「遺族、地元、企業が色んな形でかかわって供養の場が続くことの意味を改めて感じた。自分たちも命の大切さを訴え続けたい」
この日の慰霊登山は、密集を避けるため遺族と関係者に限られた。日航が遺族の登山を支援する日程も、例年の8月11~13日に7月後半の2日間を加えて対応した。
12日夕にふもとで開かれる追悼式典は、例年200人超の参列者を村関係者ら十数人に絞る。墜落した午後6時56分の黙禱(もくとう)や、犠牲者の数と同じ520本のろうそくに明かりをともす様子は、参加できない遺族に向けてインターネットでライブ配信する予定だ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f249df35076e75f3292b14033e30c3786898e5e3
日航機墜落事故 1985年8月12日、羽田発大阪・伊丹行きの日本航空123便が離陸から12分後に操縦不能となり、同日午後6時56分に群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。4人が奇跡的に救助されたが、乗客乗員520人が死亡した。犠牲者数は単独機の事故としては現在も世界最悪。同機は米ボーイング社製で、後部の圧力隔壁の修理が不十分だったことが原因とされる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/60e6c47a6d5683d1418efd73f53f48ec7738a17b
後に公表された機長のボイスレコーダー。
懸命に操縦されてた機長の声が今でも衝撃的に記憶に残っています。
機長もこの事故で亡くなられた被害者の一人だと思います。
パイロットは操縦不能の状態で様々な手段を駆使して最後の最後まで闘っていた事実が後に分かることになる。
あの時もし123便が市街地に落ちていたら空前の大事故になっていた。
最後に操縦席から見た景色はどんなだったろう…
結果的にたくさんの生命を乗せた飛行機を山に向かわせなければならなかった、それはどれほど無念だった事だろう…
私は今年も黙とうを捧げます。
政治的な思惑云々はわからないが、震災の原発の時といい、なぜ米軍の協力を断るのか?なぜ人命第一の判断と行動ができないのか。
この事故の教訓を今の社員にしっかり教えていかなければいけない。
一緒にニュースを見ていた母もこの35年の間に亡くなりました。月日の流れを感じずにはいられませんが、忘れてはならない事故です。
当時、アナウンサーが「この平和の時代に520名が一度に亡くなるということ…」と言っていたのが忘れられません。
この暑さのか中、マスクでの登山は大変だと思います。どうか体調には気をつけてください。
ご冥福をお祈りします。
今はコロナと酷暑で大変だけど、毎年登られる姿をテレビで見るたび心が痛みます。この墜落事故もこれから先語り継がれなければいけない。そう思います。