東京工業大学・西田亮介准教授「学術会議の任命拒否問題くらいで「学問の自由」は死なない」「政府の判断の背景には、大学に対する厳しい世論がある。学者は国民に向き合うべき」とド正論!!
10月20日、東京工業大学准教授の西田亮介氏が、「日本学術会議の任命拒否程度では学問の自由は死なない」とする記事をプレジデントに寄稿した。しかも、西田氏は、「政府の判断の背景には、大学に対する厳しい世論がある。学者は国民に向き合うべき」とまで言っているのだ。
学術会議の任命拒否問題くらいで「学問の自由」は死なない!!
まず西田准教授は、日本学術会議は「総合科学技術・イノベーション会議」と役割が重複している上に、研究機関でもないと指摘する。
そもそも日本学術会議とは何か。概ね各先進国が設置しているアカデミーの日本版と考えられる。近年では政府からの諮問はあまり行われず、答申も乏しかったが、提言の提出やシンポジウムの開催、他国のアカデミーとの関係構築などを行ってきた。
だが、近年では具体的な制度論、政策論に関しては、同じ内閣府に設置された総合科学技術・イノベーション会議が「科学技術・イノベーション政策の推進のための司令塔」として活発な活動を行ってきた。なお日本学術会議それ自体は、研究機関ではない。
この学術会議は機能不全の上に、ダブっていたというのは指摘の通りである。そうでもなければ、学術会議の必要性がここまで疑われる事態にはなっていないはずだ。少なくとも、学術会議が総合科学技術・イノベーション会議との差異を積極的にアピールしたとは思えない。
そして西田氏は、今回の騒動で学問の自由は死ぬことはない、もしそうならば、最初から死んでいると指摘する。
もし今回のようなことで学問の自由が死ぬのであれば、“我々はもう死んでいる”と言わざるを得ないし、言い方を変えると、これまで学問の自由が生きていたとするなら、学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいではやはり学問の自由は死なないともいえる。
西田氏は、学問の自由が生きていれば、この程度のことでは死なないとし、そして、もし今回のような騒動で死んでしまうのであれば、学問の自由は既に死んでいると指摘する。
これは全くその通りとしか言いようがない。我国の学問の自由とは、そのようにひ弱ではないからだ。
本当に必要なのは、研究教育を取り巻く誤解の払拭!!
そして西田准教授は、そういう大文字の議論もよいが、その前に学者の存在意義を社会に対し、十分に説明してこなかったと指摘する。
残念ながら、これまできちんと自分たちについて説明することが十分ではなく、社会と信頼関係を取り結んでこなかったがゆえに、日本の研究者や大学、学問が社会から十分な信頼や評価を得られていないためだ。
日本の政治、経済、社会の各セクターには、大学や研究者は実態から乖離(かいり)して、それらがもはや役に立たないという誤解が相当程度浸透してしまっているからだ。
だがもちろんそれらは人文社会科学系を含めて、誤解である。
(出典 TOKYO MX)
西田氏によれば、大学や研究者が現実の政治の実態から乖離してしまっていると、社会から誤解の目で見なされているというのである。西田氏の学者としての誇りを感じさせる。
確かに、社会と信頼関係が結べていない今、声高に「学問の自由」が侵害されたと叫ぶ、学術会議とその擁護者に対して違和感しか感じない。学術会議がどのような貢献をどのようにしているのかも不明な今、そんなことをされても理解に苦しむ。
そして西田氏は、研究者にとっての本丸はそこにあり、学術会議の任命の問題ではないと指摘する。
そういう大文字の議論も良いが、研究者にとっての本丸は、研究教育を取り巻く誤解の払拭と早急な実態の改善にこそあるはずだ。
そして、それらをせめて維持、できれば改善するために社会、経済、政治の理解を得ることこそが重要に思えてくる。
大学に勤める、一研究者としてはそのことを知ってほしい。現状批判も重要だが、ときに誤解に基づいて我々が見られているのだとすれば、当事者が冷静にその誤解を改善する説明や対話を重ねることも重要ではないか。筆者はどちらかといえば、そちらに与したい。
まさにその通り、大正論である。
まず6人の研究者が就職に失敗しただけのことを過剰評価し、学問の自由を叫ぶのではなく、まずは学者の側から国民に対し、自分たちの存在理由と研究の意義を説明し、対話し、理解してもらうことが何よりも重要なのだ。
日本学術会議とその擁護者は猛省し、まずは国民との対話や話し合いから始めるべきだ。