日本学術会議、日本の独立まで大妨害の過去!サンフランシスコ講和条約の政府決定に大反対し、非現実的なソ連との講和を提案!政治問題に常習的に関与する日本学術会議には大改革が必要だ!
野党が騒ぐ日本学術会議の会員任命拒否問題。日本学術会議が自律的な組織なら、野党が騒ぐのも百歩譲って理解できるが、日本学術会議は、内閣府が所管する行政機関だ。行政機関に就職できなかった6人の為に、長々と叫び続けることは、多くの国民の共感を得られるものではない。
野党が必死に守る日本学術会議。この組織を守る理由の一つは、党派性を維持するためではないのか。
日本学術会議が、純粋に、学問的見地から意見を述べているのかというとそうではない。過去には明らかな政治問題に首を突っ込んでいたことが判明している。しかも下手をすればこうした勢力によって我国はGHQの占領から独立できなかった恐れまであったのである。
日本学術会議は、学問とはかけ離れた、ただの政治団体であることが明らかになってきている。この点を是非ご紹介したい。
吉田茂総理を激怒させていた日本学術会議。
日本学術会議が、明らかに政治問題に意見したことがある。それがサンフランシスコ講和条約についてだ。
時の総理、吉田茂氏は、単独講和か全面講和か難しい決断を迫られていた。西側諸国とのみの講和か、それとも西側・東側の双方を含めた講和か。皆さんにもお分かりのように、この問題は、学問云々で答えが導かれるものでは当然ない。
吉田氏は、単独講和という英断を下した。しかし、日本学術会議はこともあろうに、単独講和に反対する決議を採択したのだ。
その原点がサンフランシスコ講和条約だ。日本は1951年に条約を調印、第2次世界大戦における戦争状態と、連合軍による占領を終結させ、主権を回復した。
ところが、米ソの冷戦は既に45年から始まっていた。日本は条約を結ぶ際、ソ連を代表とする“東側諸国”も含めた全面講和を目指すべきか、アメリカなどの“西側諸国”と単独講和に踏み切るか、世論は2つに割れていた。
日本学術会議は50年、単独講和に反対する決議を採択。屋山氏の寄稿には学術会議が《吉田首相を激怒させた》ことが紹介されている。首相だった吉田茂(1878~1967)は単独講和を決断していたからだ。
日本学術会議が、単独講和をするという吉田氏の英断を批判するのは、誰がどのように見ても学問的知見ではなく、ただの政治的な主張だ。
「学者の国会」ではなく、「一部の学者の政治団体」と日本学術会議を称した方が適切ではないのか。
なぜこのような「学者の政治団体」に、日本学術会議は変貌してしまったのか。その背景には共産党の存在があるという。
日本共産党が攻略した日本学術会議
共産党と日本学術会議の関係は、多くの学者、そして有識者から指摘されている。更に、日本学術会議に就職することができなかった6人のうちの3人が、共産党の機関誌「前衛」に登場したことからも、共産党の思想に近い会員がいるのではないか。(参考)
日本学術会議と共産党との関係について、政治評論家の屋山太郎氏が次のように語っている。
なぜ、日本学術会議は政治的に偏向したのか、先に紹介した【1】日本学術会議が共産党に《占拠》されている理由として、屋山氏は選挙に原因があるとした。
(中略)
日本学術会議は49年の発足から84年まで、選挙によって会員を選んでいた。日本共産党はこれに目をつけ、シンパや党員の学者に有権者登録を積極的に行わせ、関係の深い日本科学者会議のメンバーを立候補させていた。組織票の力は強く、候補者は当選が相次いだ。
《日共が学術会議を「攻略し終わった」といわれたのは、第九期だが、たとえばこの選挙の第四部(理学)をみてみる。立候補者は四十二名で、このうち日科系(新左翼も含む)の当選者は定員三十名中十四名。落選者十二名の内訳はノンポリが十名、日科系はわずか二名だった。いかに日共の票割りが正確だったかわかるだろう》
屋山氏の指摘による、共産党による日本学術会議の攻略過程を見てみると、日本学術会議が、「学者の政治団体」に変貌を遂げた理由がよくわかる。
「学者の政治団体」、日本学術会議に国費を投入することがふさわしいのか。さらには、総理による民主的コントロールをも拒否していることを踏まえると、国民の誰一人として、現状のまま、日本学術会議が存続していいとは思っていないはずだ。
野党らが、国民生活よりも、必死に守ろうとする日本学術会議。「学者の国会」とは程遠い日本学術会議には大改革が必要だ。