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菅前総理が追悼の辞のエピソードを語る「今までのいろいろな感謝の気持ちを込めてご挨拶しようという思いだった」




安倍元総理の国葬儀で友人代表の追悼の辞を読み上げた菅義偉前総理。多くの人が胸を打たれ絶賛した。

テレビ朝日の社員がつまらない邪推で茶々を入れたが、菅前総理は国葬後初の単独インタビューに応じ、追悼の辞のエピソードを語った。

国葬から2日が経った29日、菅前総理が初めて単独インタビューに応じ、追悼の辞の執筆過程、盛り込まれたエピソードの裏話を明かした。

「安倍さんとある意味で最後の別れ、直接お話しできる機会だと思ったので、今までのいろいろな感謝の気持ちを込めてご挨拶しようという思いだった」

壇上での心境をこう振り返る菅前総理。葬儀・告別式の後、昭恵夫人から「友人代表の機会があったら菅さんにぜひお願いしたい」と依頼を受けたそうで、「提案があったので、『大変だ』と思って一生懸命資料集めから。一気にではなくまず全体像を入れていくというか、“何をして、何をして…”という構想からした。それと、私自身が今まで発言したものを集めていき、(完成形になったのは)意外に早かった」という。

声を震わせる場面も

安倍政権で長らく官房長官を務めたことを振り返りながら、<あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした>と感謝を伝える直前には声を震わせる場面もあった。「ほぼ毎日一緒だったので。安倍内閣の政策に対しての賛否がありながら、8年続いてきたことは事実なので、大きな喪失感を持つのは当然のことだと思う」。

<衆議院第一議員会館、1212号室のあなたの机には、読みかけの本が1冊ありました。岡義武著『山県有明』です。ここまで読んだ、という最後のページは、端を折ってありました。そして、そのぺージにはマーカーペンで線を引いたところがありました>

安倍元総理の生前の姿を思わせるこのエピソードも反響を呼んだが、「議員会館の様子を見させていただいて、“こういう風に置いていましたよ”と。たまたま端の部分を折って、そこにマーカーを引いていた。選挙の時だかに、『この本を勧めてくれる人がいて読んでいるんだ』ということは聞いていた」と明かす。

菅前総理は自身の思いを重ね、印がつけられた箇所にあった<かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ>という歌を紹介した。なぜ「私が遺志を継いで、こうしていきます」という決意表明をしなかったのか? その問いには「式典の中で時間が限られているので、最後に言っておきたいこと、訴えたいことを使った。今までどうしても安倍さんに頼っていた部分が、私たち自民党、日本にあったと思う。時間が全くない中で、そういう(遺志を継ぐ)覚悟はなかなかできるものではない」と答えた。

引用元 菅前総理、追悼の辞は「夫人から提案があって、『大変だ』と思って一生懸命資料集めから」 執筆過程、読みかけの『山県有朋』発見時のエピソードも <国葬後初単独インタビュー>

動画⇒20時~菅前総理の独占インタビュー 安倍氏「国葬」後の胸中を初めて明かす

これを見て分かるように、追悼の辞はまぎれもない菅前総理の言葉で、安倍元総理の思いがこもった素晴らしい弔辞だった。

「菅前総理の友人代表も演出だ」と語った人もいたが、菅前総理は安倍前総理が凶弾に倒れると、いてもたってもいられず搬送された奈良の病院に駆け付けた。この時のことを菅前総理は「万が一のことを考えて、同じ空気を吸いたかった」「寂しがり屋でもあったので、そばにいてやりたいという感じだった」と語っていた。また、菅前総理は安倍前総理が亡くなった2か月後に事件現場の奈良市の大和西大寺駅付近を訪れ手を合わていた。

菅前総理がどれだけ安倍元総理を思っていたがわかる。その思いは「悔しくてなりません」「あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした」に込められていたと思う。こういう人物だからこそ昭恵夫人も「菅さんしかいない」と依頼したのだろうと考える。

メディアには美談として取り上げろとは言わないが、くだらない邪推で陥れることだけはしないでほしい。







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