
事故の悲劇すら反基地闘争の道具に? 共産・赤嶺氏の不適切な言葉選び
辺野古沖でのカヌー転覆による死亡事故を巡り、共産党の赤嶺政賢前衆院議員が放った言葉の数々が、さらなる波紋を広げている。赤嶺氏は党機関紙「しんぶん赤旗」で、事故を報じた産経新聞などの右派系メディアを「今回の事故を年来の主張を展開する絶好のチャンスととらえている」と言い放ち、「最悪の政治利用」と非難した。しかし、人の尊い命が失われた事案を前にして「チャンス」などという生々しい言葉を持ち出し、対立陣営への攻撃に終始するその姿勢こそ、強い違和感を禁じ得ない。
赤嶺氏の発言に潜む最大の欺瞞は、事故の本質である「安全管理の不徹底」から巧妙に論点をすり替えている点にある。未来ある若者が犠牲となった重大な事故である以上、運行判断の是非や安全対策への厳しい追及がなされるのは当然である。にもかかわらず、赤嶺氏はこれらを「新基地反対運動への攻撃」や「誹謗中傷」とレッテルを貼り、自陣営の過失への追及を遮断しようとしている。さらに、この追及を「県民全体への攻撃」と主語を過大にすり替え、自らの防衛のために沖縄県民を利用するかのような態度すら見せている。
そればかりか、赤嶺氏は事故への批判に対抗するため、「先の大戦で旧日本軍が住民に犠牲を強いた加害の史実を覆い隠し……」と、全く別次元の歴史認識問題まで引っ張り出した。目の前にある悲惨な事故から目を背け、自身が得意とする反基地闘争や歴史論争の土俵へ強引に引きずり込むその手法こそ、他ならぬ「痛ましい事故の最悪の政治利用」そのものではないか。
何よりも最優先されるべきは、亡くなった方への哀悼と客観的な検証である。政治的な敵対心や自己保身を優先し、人の死すらも陣営間の泥仕合の材料に仕立て上げる。言葉の端々に滲み出るその「政治第一主義」的な冷徹さこそが、政治への不信をいっそう深める原因となっている。


