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元検察官有志による意見書への疑問!ロッキード捜査を賞賛するも政敵への介入であったこと、菅政権の地検への介入、「ベンサムの警告」は無視?そして、官僚OBが現職総理を人事で批判するのはタブーではないですか?

元検察官有志OBの意見書が公開されたが、これに対し、いくつもの疑問があるので、ご指摘したい。

検察官は準司法官 → 基本的に行政官ってことですよね?

例えば、この一文。

検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

引用元 【意見書全文】安倍首相はルイ14世の「朕は国家」を彷彿。検察OBら、検察庁法改正に反対

検察官の責務が重大で、国民生活の安定に大きく貢献してきたことは言うまでもない。

しかし、準司法官ということは、司法官ではなく、基本的に行政官だということである。あくまでも、検察官は、内部的には、行政官として検事総長を頂点とする組織体の一員であり、国家意思の統一の保持のため、一体として活動することが要請されるのである。これは、「検察官同一体の原則」からも明らかだ。(参考

そもそも検察庁は行政府を構成する一組織であり、検察官は国家公務員である。もし司法官であれば、検察庁は行政府の埒外の司法府に設置されてしかるべきだ。しかし、現状ではそうなっていない。

誇り高いことは尊重するが、基本的に行政官であることを無視しているのではないか?

正確な発言がこういう事時こそ必要ではないか?

ルイ14世をたとえに出すのは不適切では?

本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

引用元 【意見書全文】安倍首相はルイ14世の「朕は国家」を彷彿。検察OBら、検察庁法改正に反対

これも先ほど述べたように、検察官は基本的に行政官である。それを指摘した現総理に対し、行政府のOBがルイ14世とすることは、民主主義の観点から危険ではないか?非常に危険な情緒的な発言ではないか?

そもそも、ルイ14世は、フランスを一大強国にのし上げ、全盛期を演出した偉大な人物である。それが没落したのは、腐敗した貴族や教会が市民を虐げ、極左のフランス革命によって滅ぼされ、極左が暴走して自滅した後、ナポレオンの軍部独裁を引き起こしたからである。

皮肉なことに、むしろルイ14世を否定した勢力によって、フランスは男子人口の多くが戦死し、国富が消し飛び、奈落に転落したのである。むしろ、安倍総理は名誉に思うのではないか?

いずれにせよ、批判の比喩としては不適切だ。

ジョン・ロックの引用も不適切!!法律家の暴走を批判したベンサムも引用すべき!!

時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

引用元 【意見書全文】安倍首相はルイ14世の「朕は国家」を彷彿。検察OBら、検察庁法改正に反対

また、上記のようにジョン・ロックを引用しているが、これでは片手落ちだ。

ジョン・ロックよりものちの時代、19世紀の法学者、ジェレミー・ベンサムも引用しなければ不公平だ。ジョン・ロックの精神が普遍化した後、その弊害も出てきた。秦の始皇帝もそうだが、過度の法律主義の弊害である。

慶応大学法学部教授の大屋雄裕氏が指摘するように、ベンサムは、「法」は一般市民の理解を排除することによって法律家階級の特権や私的利益を守るものにしかなっていないのではないかと批判したのである。

また、ジョン・ロックは、抵抗権による革命の正当性を説いたわけだが、その論理を正当化するならば、我国も米国やフランスのように抵抗権を認め、銃刀法を緩和すべきということになってしまう。

ジョン・ロックは立派な人物だが、あくまでも近世の人物だ。一方、ベンサムはそれを克服した近代人である。後者も尊重せねば、片手落ちとの批判は免れ得ない。

こうした観点からも非常に一方的でバランスの取れていない発言だということがわかる。

ロッキード事件を賞賛するも、三木首相が全力で支援した捜査だったことを無視していませんか?菅直人政権の海保船長開放も無視ですか?

ロッキード事件に対する評価も疑問だ。

かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。

(中略)

当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、(中略)悲観派が入り乱れていた。

事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏(中略)の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の(中略)内閣総理大臣は三木武夫氏であった。

特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。

引用元 【意見書全文】安倍首相はルイ14世の「朕は国家」を彷彿。検察OBら、検察庁法改正に反対

ロッキード事件の捜査は正しかったし、捜査に当たった検事たちは賞賛されるべきだ。

しかし、一方で、三木武夫首相が田中派潰しの為に、積極的に応援したことも事実である。政治介入に抑制的だったのではなく、むしろ政敵の捜査に熱心だった政治家たちの存在が捜査に貢献したと見なすべきだろう。これこそ政治介入の悪例ではないのか?

そして、菅直人政権において、尖閣諸島沖で海保船舶に激突した中国漁船の船長が「外交上の理由」で無罪放免されてしまったことが触れられていない。

「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。」というのは正しいが、それは様々な人々の多様な正しさが承認された上でのことではないか?

この意見書はそうした意味で非常に偏った、片手落ちのように思えることは残念だ。

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