日本の観音寺「日本民法によって所有権を決めるべきだ。仏像の権利は我々にある」⇒韓国の浮石寺「韓国民法により所有主を決めるべきだ。略奪された文化財に対しては占有取得が認められない」
対馬の観音寺から盗まれた仏像の所有権を巡り、日韓間で激しい攻防が繰り広げられていると中央日報が報じた。
記事によると、観音寺側(日本側)は書面を通じて「日本民法によって所有権を決めるべきだ。これに伴い、仏像の権利は我々にある」と主張。これに対して浮石寺側(韓国側)は「韓国民法により所有主を決めるべきだ。特に略奪された文化財に対しては占有取得が認められない」と反論したという。
10年前、韓国の窃盗団が日本対馬の観音寺から盗んだ高麗金銅観音菩薩坐像の所有権を巡り、控訴審で韓日間が激しい攻防が繰り広げられている。
大田(テジョン)高裁民事第1部(部長パク・ソンジュン)が17日に開いた裁判で、観音寺側は書面を通じて「日本民法によって所有権を決めるべきだ。これに伴い、仏像の権利は我々にある」と主張した。1527年、観音寺を創立した僧侶が韓国から合法的に仏像を持ち込み、500年近く平穏かつ公然と所有権を「占有取得」したということだ。
反面、忠清南道瑞山(チュンチョンナムド・ソサン)の浮石寺(プソクサ)側は「韓国民法により所有主を決めるべきだ。特に略奪された文化財に対しては占有取得が認められない」と反論した。浮石寺側弁護士は裁判後、「この仏像は14世紀に倭寇が略奪して持ち去ったことが明らかだ」とし「文化財保護法は特別法で他の法に優先する。国が文化財を積極的に保護しなければならない」とした。
紛争はK(当時69)ら韓国文化財窃盗団が2012年10月に日本に渡って観音寺から仏像を盗んできたことが発端となり、韓日間の外交摩擦に飛び火した。該当の仏像は高さ50.5センチ・重さ38.6キロで、1330年浮石寺で製作されたが高麗末あるいは朝鮮初期に「倭寇」の略奪によって日本に持ち込まれたと推定されている。浮石寺が2016年4月に所有権を主張し、韓国政府に対して訴訟を起こし、翌年1月に勝訴した。
しかし控訴審は6年間行われており、仏像は国立文化財研究所遺物所蔵庫に保管されている。次の裁判は10月26日に開かれる。
「仏像は14世紀に倭寇が略奪して持ち去ったことが明らかだ」とあるが、観音寺は「開いた口がふさがらない」と語った。
観音寺の田中節孝前住職は、仏像は李氏朝鮮時代の仏教弾圧から守るために対馬に持ち込まれ、大切に守ってきたもので、韓国人から感謝されることはあっても、「略奪」呼ばわりするとは、開いた口がふさがらない、と語っている。
引用元 浮石寺 (瑞山市)
産経新聞も「仮説だが、こうした「法難」を受けた時代に、「朝鮮半島の仏像や仏画が難を逃れ海を渡った」、あるいは「朝鮮半島の寺から贈られ、日本に落ち着いた」-との発想はできないのか」と報じていた。(参考)
そもそも日本人の感覚からして、盗まれた仏像を堂々と寺にまつるような罰当たりなことを、歴史ある寺がするとは考え難い。この感覚は日本人にしか理解できないだろうが。
しかも、浮石寺は観音寺に対して「返還して欲しければ略奪ではなく友好的に贈られたことを日本側が証明すべきだ」と主張した。(参考)これは500年も前の話なので、証明は困難とされている。
だが、それは浮石寺も同じこと。
倭寇によって奪われたことを証明できていないのだ。
裁判で浮石寺は500年 – 600年前に倭寇が強奪した仏像だと主張する根拠を求められたが、「根拠を示す鑑定書は仏像を失ったときに、思い出すのが悲しいので捨てた」と主張し、根拠は提示できなかった。
引用元 対馬仏像盗難事件
このような状況の中、判明しているのは2点だけ。像の内部にあった「結縁文」の記述から1330年に浮石寺へ奉安されたものであることが判明したのと、韓国の窃盗団が観音寺から盗んで韓国に持ち帰ったという事実だけだ。
双方相譲らぬ状況だが、浮石寺も仏教弾圧を受けた寺だったようだ。
李氏朝鮮の時代、太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に浮石寺の名前はない。世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中に浮石寺の名前はなく、少なくとも15世紀初頭は廃寺だった。
引用元 浮石寺 (瑞山市)
「仏教弾圧から守るために対馬に持ち込まれ、大切に守ってきたもの」という観音寺の主張を裏付けるものではないだろうか。
仏像が一日も早く観音寺に戻されることを心から願う。